会社は社員にどこまで損害賠償請求できるのか
企業活動がグローバル化すると、日本ならではの働き方の特徴が浮き彫りになることがある。一般的に諸外国では仕事がデキル人は、今より良い待遇や、もっと腕を磨ける機会を求め転職するが、わが国ではデキル人ほど転職しない。そのため、日本の会社では人材を引き留める策(リテンション対策)にあまり関心がなかったが、昨今は専門的な知識や経験、技術を要する分野で人材不足が続いているため、こうした社員が退職しないように対策を講じることがある。
だが、こうした対策は一歩間違うと法律に抵触する恐れがある。労働基準法は前近代的な労働慣行を是正することを目的にしているため、長期の身柄拘束に繋がることを禁止している。その一つが賠償予定の禁止を定めた第16条だ。
この条文では「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償を予定する契約をしてはならない」と定めている。契約の不履行や損害が生じる前の段階で、あらかじめ違約金や損害賠償額を定めることを禁止したのは、過去において人身売買に近い形で若年労働者を集め、低賃金で働かせる際、逃亡を防ぐ足止め策として利用されたという事態の再発を防ぐためだ。
現在、国内では人身売買や強制労働はほとんど見られなくなったが、新しい形で16条違反が問われることがある。
実例としては、①医療法人が看護学校へ通う学生に対し、卒業後は医療法人で一定期間勤務することを条件に学費を援助したケースや、②病院が准看護士資格取得のために費用と生活費を支給するが、資格取得後2年以上は勤務するという条件を付けていた例、③美容師である社員が退職すれば、採用時からの美容講習手数料(月4万円)を返還させるという契約、④美容師を採用する際、相場よりも高い給料を払う代わりに、一定期日内に退職すれば500万円の違約金を払うと定めた事例、⑤中途採用時に祝い金に相当する200万円の「サイニングボーナス」を払うが、1年以内に退職すれば全額を返還するといった契約、こうした事例で裁判が起こされ、いずれも労働基準法・16条違反で無効と判断された。
研修費用の返還を巡る争い
どの会社や組織でも起こりうるのが、社員に専門的な知識や技術、技能、資格、免許などを修得・取得させるため、会社が費用を負担し専門学校に通わせたり、研修や通信教育を受けさせるが、一定期間内に退職すれば、会社が支払った費用の全額または一部を返還させるという扱いだ。
この扱いが実際の紛争になったのが、長谷工コーポレーション事件だ。同社では社員の専門分野の深耕を深め、幅広い人脈と人間性を構築することを目的に、勤続2年以上で29歳以下の総合職の中から、本人の意思で応募した者を海外の大学院に留学させる制度があった。会社は留学に際し、学費、渡航費用、特別手当等を負担するが、帰国後、一定期間を経ず特別な理由なく退職した場合は、会社が負担した一切の費用を返還させると定めていた。
この規程に基づき、実際にある社員が海外に留学しMBA(経営学修士号)の資格を取得したが、帰国後、2年5カ月で退職したため、会社は留学に要した費用847万円のうち、学費に相当する466万円の返還を求め、裁判を起こした。
東京地裁は、留学への応募は社員の自由な意思によるものであり、留学先の選定も本人が選定していること、また学位の取得は社員の担当業務に直接役立つ訳でないものの、労働者本人には有益な経験、資格となる点を指摘し、本件の留学を業務と見ることはできないとした。
そして留学費用を会社と労働者、どちらが負担するかについては、会社が労働者に対し一定期間勤務した場合には返還債務を免除する旨の特約付きの金銭消費貸借契約が成立していると解するのが相当であるとし、会社側の請求を容認した。(東京地裁 平成9年5月26日判決)
その他の類似事件の裁判でも、会社が負担した内容と業務との関連性の深さが焦点になっている。会社による研修や教育が業務命令だったり、職務との関連が深い場合は、一定の条件に該当した場合に返還を求めるという規程は、事前に損害賠償額を定めているものと判断され、労働基準法16条に違反で無効とされる恐れが高い。これを防ぐには社員と金銭消費貸借契約書を交わし、返還義務があることを明確にした上で、一定期間継続勤務した場合は返還を免除するという扱いにしておくことが望まれる。
「君たち、会社を辞めるなら研修費用を返してもらうよ」
「何もご存じないんですね」
会社が労働者に賠償を求めた裁判例
労働契約において事前に賠償額を予定することは法違反になるが、会社が実際に被った損害については労働者に賠償を求めることができる。会社による損害賠償の請求は、①労働者が労働契約を守らないという債務不履行(民法415条)による損害や、②不法行為(民法709条)による損害、③会社が使用者責任により労働者の行為によって被害を被った第三者に対して損害を賠償したことにより取得する求償(民法715条第3項)に基づく請求がある。
しかし、いずれも損害の全額を賠償請求できる訳ではない。その理由の一つとして挙げられるのが報償責任という考え方だ。会社は労働者を使用することで利益を得ており、そのため利益に見合った損害も負担すべきであるとする。利益は全部会社のものにして、損害は全額労働者に負担させるのは公正さに欠けるとされる。
また危険負担という考え方もある。会社は経営上生じることが予想される危険に対しては、負担や回避、分散の措置を講ずべきであり、これを怠ったため生じた損害については、会社にも一定の責任があるとする。例えば会社の業務でクルマを使用していれば、事故が生じる恐れは十分予想される。そのため会社は任意保険に加入し、事故による損害を抑えるように努める責任がある。これを怠った結果生じた損害を、全額労働者に賠償させることは認められない。
最高裁が賠償額の制限を示した事件
このケースが実際の裁判となったのが茨城石炭商事事件で、争いは最高裁までもつれ込んだ。この事件は会社所有のタンクローリーを運転していた社員が追突事故を起こし、相手側の車両と自社のタンクローリーに損害を与えた。そのため会社は追突された第三者に対して損害を賠償した。そして労働者には、会社が相手側に賠償した額と自社のタンクローリーの修理費用の合計40万円の支払いを求め裁判を起こした。
昭和51年、最高裁は判決において、会社はその事業の性格、規模、施設の状況、労働者の業務内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防もしくは損害の分散についての会社側の配慮の程度、その他の諸般の事情に照らし、損害の公平な負担という見地から信義則上(権利の行使や義務の履行はお互いの信頼や期待を裏切らないようにすべきであるとする民法の規定)相当と認められる限度において、労働者に対し損害の賠償または求償の請求ができるものと解すべきであるとし、会社側の損害賠償請求権や求償権には一定の制限が加えられるべきとする判断を示した。
そして具体的にこの事件では、①会社はタンクローリーの自動車保険について、対人賠償責任保険には加入していたものの、対物賠償責任保険や車両保険には加入していなかったことや、②労働者のタンクローリーの運転は特別な業務命令による臨時的なものであったこと、③労働者の給料は月額4万5千円で、勤務成績は普通以上であったこと、これらを考慮すると会社が労働者に請求もしくは求償できる範囲は、信義則上、損害額の4分の1を限度とすべきであるとした。
このように会社が労働者に対して損害賠償を請求する場合、労働者の責任の範囲は、会社の講ずべき事故・損害の予防や分散措置、賃金と損害額の関係、賃金から見て補償に要する期間などが考慮され、一定の範囲で制限されることになる。
これまでの裁判例から見ると、労働者の過失の程度が軽度の場合は、労働者の損害賠償額は全損害の0%~30%と判断されることが多く、重度の過失による損害の場合では50%~70%とされることが多い。また会社が行った懲戒処分を考慮して、賠償責任を軽減したケースもある。懲戒処分を課した上に損害を賠償させることは、懲戒処分の権利の濫用もしくは二重処分の禁止に違反するためだ。
2017/3/29
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