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ヤマト運輸と佐川急便、成長秘話


今や生活に欠かせないインフラの一つが宅配便だろう。誰でも荷物を1個から全国どこへでも発送でき、翌日または翌々日には到着する。この仕組みを民間事業者として作り上げたのがヤマト運輸の小倉昌男氏だ。

同社の創業は古く、大正8年(1919年)に遡る。昌男氏の父、小倉康臣氏が創業、戦前には関東一円に営業路線を展開、社員数500名、トラック150台を有していた。戦争により規模は縮小するが、戦後は急速に元の規模にまで回復していた。

そして昭和23年(1948年)には康臣氏の次男、昌男氏がヤマト運輸に入社する。この頃の日本経済は戦後の急速な経済復興需要により物流量は飛躍的に増加、トラックによる長距離運送が主流になりつつあった。だが康臣氏はこれまでの成功体験から、長距離は鉄道の仕事という考えで、長距離運送には乗り出さず、通運や百貨店の配送、梱包、航空、海上輸送などの多角化に向けて舵を切る。


小倉昌男氏

しかし時流の変化には抗しきれず、昭和32年(1957年)に長距離運送の事業免許を取得する。同業他社に10年近く遅れてしまい、この遅れが後々のヤマト運輸にとって大きな足かせになる。


佐川急便の創業


一方、ヤマト運輸が長距離運送の免許を取得したのと同じ年に創業したのが佐川急便だ。創業者の佐川清氏は20歳の半ばに建設請負業の佐川組を設立していたが、元請会社の倒産で佐川組を解散。35歳で妻と2人で京都に事務所を開き、京都~大阪間で運送業を始めた。


佐川清氏

運送業といってもトラックはなく、人力で荷物を背負い、京都と大阪の間は国鉄に乗車して荷物を運んだ。これは江戸時代に人力で小荷物や信書を運んだ飛脚と同じスタイルだ。飛脚は明治時代に国家による郵便事業に吸収され消滅したが、佐川氏が始めた運送業は飛脚の復活と言える。同氏が佐川急便は運送会社ではなく、飛脚であると繰り返し唱えていたのはこの創業時のスタイルに原点がある。

しかし創業したばかりで信用もなく、運送業の免許もない佐川急便に荷物を出そうとする荷主はおらず、見込客の元へ「便利屋の佐川です。飛脚のご用はありませんか」と日参する日々だった。ようやく人柄を信用して荷物を出してくれたのが大阪の輸入商社で、現在の価格にすると1台100万円近い外国製カメラを10台、京都の写真店に運ぶという仕事だった。

そして次に大阪の光洋ベアリングから、1つ50キロというベアリングを京都の機械メーカーに運ぶ仕事が舞い込んむ。佐川氏は1回当たり250キロの荷物を背負い、大阪・京都間を1日7往復して運んだ。これに気を良くした光洋ベアリングからはその後も注文がきた。

こうして休みや時間も関係なく、依頼があれば駆けつけ、翌日には荷物を配達することで信用を得て、佐川急便は急速に売上を拡大させていく。


壁にぶつかるヤマト運輸


一方、念願の長距離運送に乗り出したヤマト運輸は大きな問題に直面する。東京発の荷物は集まるものの、知名度の乏しい関西では帰りの荷物が集まらなかった。主な荷主は先行する日本通運や西濃運輸、福山通運などが押さえていた。小倉氏はとにかく荷物を集めることを優先させたため、収益が急速に悪化した。

距離と重量によって決まるトラック運賃は逓減制になっていて、大口の荷物はキロ当たりの運賃が安くなり、運送会社の利益も低下する。荷物集めを優先させた結果、ヤマト運輸は大口荷物が多くなり、収益が悪化した。

収益改善のためには利益率の高い小口の荷物を数多く集める必要があったが、後発のヤマト運輸はそれらの荷主を開拓できなかった。そうこうしているうちに多角化した事業も採算が悪化し始め、昭和51年(1976年)には経常利益率が0.07%まで落ち込んだ。

八方塞がりに陥った小倉氏は、これまで運送会社は何時でも、どんな荷物でも、量を問わずに安く運ぶのがあるべき姿と思っていたが、それは間違いではないかと思い始めた。そして商業貨物ではなく、個人の生活関連物資に活路を見いだせないか考え始めた。ヒントになったのはメニューを牛丼に絞り込んで繁盛していた吉野家だった。運送会社も個人の荷物しか運ばないことで生き残れるのではないか・・・





宅急便の誕生へ


当時は個人が発送する小口の荷物は郵便小包に限られていた。民間の会社が手掛けないのは採算の見込みがなかったからだ。商業荷物と違い個人の荷物はいつ、どこへ発送あるか予想がつかず、依頼があるごとに集荷や配送をしていては採算が取れないと誰もが思っていた。

だが小倉氏は1軒の荷物は小口でも、一定の広さの区域で見れば、一定数以上の荷物が出て来るのではないかと考えた。そして全国規模で集配というネットワークを構築すれば、採算に合うのではないか・・・カギになるのはトラック1台あたりどれだけの荷物を集められるかという荷物の密度であり、トラック1台についての損益分岐点を越えることができれば集配のネットワークから利益が上がってくるというヨミだった。

だが予想した通り荷物が出て来るのかはやってみないと分からない。もし荷物が集まらなければ先行投資の資金はムダになり、今以上の経営危機に陥る。そこで小倉氏は個人が荷物を出しやすくするためサービスの商品化に力を注いだ。参考にしたのがパッケージ旅行商品の「ジャルパック」だった。千差万別な旅という商品をパッケージにして提供し、誰にでもわかりやすく、手軽に旅行を楽しめる。

そこでネーミングを「宅急便」と定め、荷物の大きさや重さ、サービス区域を規格化し、地域別均一料金と翌日配達でわかりやすくした。荷物の集荷のために地元の酒屋や米屋などに取次店となってもらい、客は取次店に荷物を持ち込み、ヤマト運輸が集荷に回ることにした。

昭和51年(1976年)に営業を開始した初日の荷物は11個だった。その後、昭和52年(1979年)にはネットワークを人口比で75%までカバーするまでに広げると荷物は増え、昭和55年(1980年)には損益分岐点を超え、ヤマト運輸の経常利益率も5.6%まで回復した。


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佐川急便の投資と営業力


一方の佐川急便は、昭和40年代から50年代にかけ営業地域を全国に拡大させていた。もともと佐川急便は創業時に京都・大阪間という近距離に路線を絞り、荷物は人力で運ぶため重量物は少なく、利益率が高かった。さらに休日や深夜でも集荷に応じたため、料金も他社の3倍から4倍と高額だった。

佐川氏は高収益体質によってドライバーには高額な給料を払い、物流センターの建設や情報システム、地方の同業他社の吸収合併などの巨額の投資を続けた。昭和50年にはトラック台数が1,000台を超え、社員数も1,600人を超えた。ヤマト運輸が出遅れて荷物が集まらず、個人の宅配へ転換せざるを得ない情勢の中で、佐川急便が荷物を集めたのは強力な営業力だった。

営業の相手は荷主だけでなく、地方で集配に協力してくれる地元の運送会社、路線免許や増車許可を出す運輸省、そして政治家にも及んだ。佐川氏は接待営業の席に人気のスポーツ選手や俳優、歌手などの芸能人を招いてもてなした。そのため「日本一のタニマチ」と称されるまでに至る。

だが派手なカネ使いは、その後の脱税事件や東京佐川急便事件の温床になり、経営の一線から身を引かざるを得なくなる。


二人の共通


ヤマト運輸の小倉昌男氏が経営とは論理の積み重ねであり、経営者は自分の頭で考えることが仕事であると唱える一方、佐川清氏は自らについて抽象論は苦手であり、体験でしかモノを考えられない人間であると語っている。

好対照な二人だが共通する点もある。人材の活用と組織のスリム化だ。二人ともドライバーは荷物を運ぶだけが仕事ではなく、伝票を書き、パソコンへデータを入力し、集金をして、荷物の問い合わせに対応し、新規顧客の開拓にもあたらせた。

そして具体的な仕事の進め方は権限を委譲して、ドライバーに自主性を発揮させた。自主性を発揮させるため両社とも組織は逆ピラミッド型を目指した。頂点に位置するのが最も人数の多いドライバーで、経営陣や役職者をピラミッドの下位に位置づけ、極力、管理職や間接部門を増やさないように少数精鋭を貫いた。

歴史に「もし・IF」は禁物だが、長距離輸送に乗り遅れたヤマト運輸に佐川急便のような強力な営業力があれば、荷主の開拓は進み、宅急便は日の目を見なかったかもしれない。そして佐川清氏に強力な営業力がなければ、創業が遅れた佐川急便は荷物を集められず、個人の宅配事業は佐川清氏が始めたかもしれない。

商品開発力と営業力、そして時流というタイミングは会社の将来のあり方を左右する。


2025/07/21


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